2017年3月20日月曜日

再審開始決定から3年袴田巖さんは死刑囚のまま


再審開始決定から3年袴田巖さんは死刑囚のまま(浜松救う会)

 袴田巖さんの冤罪を晴らす長年の闘いが、3年前静岡地裁で認められました。
2014年3月27日の再審開始決定により、47年7ヵ月の間拘束されていた袴田さんの身柄が解放されました。「負けてたまるか」と闘い続けてきた姉のひで子さんの元に還ることが出来ました。
 この日のひで子さんの笑顔ははじけるばかりでした。
ところが検察の異議申し立てにより、東京高裁で即時抗告の審理が進められることになり、3年を過ぎようとしています。検察は、再審開始決定の重箱の隅をつつき、DNA鑑定の血液の「選択的抽出法」にケチをつけてきました。
 そして、弁護団の強い批判をかわし、裁判所は「選択的抽出法」の検証実験の実施を、1年2ヶ月前に決めました。鑑定することを決めたものの、裁判所は鑑定人に何ら指示をせず、いたずらに時間だけが過ぎました。
 1年2ヶ月が経過した2月末、「鑑定の経過報告書」として裁判所に提出されました。内容は、裁判所の定めた方法をとらず行われたもので、弁護団が当初から批判していた無意味な実験でした。しかも、4月中に引き続きデータを提出するという不完全な内容でした。
 無駄に時間を費やしたものです。検察寄りの裁判所の訴訟指揮により、袴田巖さんの冤罪を晴らすことが先延ばしになってしまいました。この責任は、検察だけでなく裁判所も重大な責任を負うものです。
 こうした裁判の長期化をひで子さんは批判して「殺されてたまるか」と、負けてたまるかと頑張ってきた闘志をさらに強いものにしています。

資料
無意味で無駄な検証実験 袴田事件弁護団
「鑑定結果が否定されたわけではない」
  3月2日 19時31分NHKニュースから
 いわゆる「袴田事件」で、再審=裁判のやり直しが認められる決め手となったDNA鑑定をめぐり、検証を行った別の専門家が、手法に疑問があるという報告をまとめたことについて、袴田巌さんの弁護団は「鑑定結果が否定されたわけではない」という見解を明らかにしました。
 昭和41年に今の静岡市清水区で一家4人が殺害された事件で、死刑が確定していた袴田巌さん(80)について、3年前、静岡地方裁判所は犯人のものとされる血痕のDNAの型が袴田さんと一致しなかったという、弁護側の専門家の鑑定などを基に、再審を認める決定を出しました。 検察が鑑定の検証を求めたため、東京高等裁判所が別の法医学の専門家に実験を依頼し、先月、「実験で使われた試薬の中に、DNAを分解してしまう成分が含まれていた」として、鑑定の手法に疑問があるという報告が提出されました。  これについて、袴田さんの弁護団は東京都内で会議を開き、「仮に報告が正しいとしても、DNAを抽出できる量が減るだけで、鑑定結果が否定されたわけではない」とする見解をまとめ、今後、具体的に反論する方針を明らかにしました。 弁護団の笹森学弁護士は「裁判所から依頼された内容を無視した独自の研究実験で、検証とは言えない」と批判しています。

2017年3月13日月曜日

3・11 街頭署名と巖さん81歳の誕生祝

定例の街頭署名

             巖さん81歳の誕生祝   
巖さんの誕生祝に駆けつけた獄友たち
石川さん、菅谷さん、桜井さん

2017年1月8日日曜日

巖さんを囲む会(2017新年会)

1・8袴田巌さんを囲む新年会

201718日、袴田巌さんを囲む新年会がもたれた。東京拘置所から釈放されてこの3月で3年めになる。50年近い拘禁のなかで硬直していた巌さんの表情は、日常生活のなかでほぐれ、笑顔も出るようになり、対話もすすむようになった。今回の新年会でそれをいっそう感じた。
静岡地裁が袴田巌さんの再審開始と刑の執行・拘置の停止を決定したのは、2014327日のことだった。この再審決定を勝ちとるために、袴田弁護団は「最終意見書」をまとめて、2013122日に地裁に提出していた。
その意見書では、犯人のものとされる5点の衣類に付着した血液のDNA鑑定結果、とくに巌さんのものとされた白半袖シャツの血痕のDNA鑑定の結果が弁護側・検察側とも巌さんのものと一致しないということが重視された。また、5点の衣類のみそ漬け実験結果から、6か月間味噌のなかにあれば、血液が黒くなることがわかり、証拠とされた衣類の血液が赤みを残すものであることから、捏造の可能性を指摘した。さらに自白に信用性が乏しいことなども強調したのである。
最終意見書を提出した直後の128日、浜松市浜北区中瀬で開催された浜松の救う会の集会では、弁護団の村松弁護士がこの最終意見書の概要を解説した。参加者は、「巌さんをふるさとに、一刻も早い再審開始を!」と思いをわかちあった。2014113日には静岡市内で全国集会がもたれ、地検への要請行動もとりくまれた。
このような動きなかで327日の10時を迎えた。当日は静岡地裁前に、浜松の救う会を含め、全国から支援者が集まった。この日、静岡地裁は再審決定を決定した。それだけではなく、刑の執行停止、拘置の中止をも決定したのだった。その報告が拡声器を通じて集まった人々に流された。拘置の中止、つまり、釈放されるというのである。地裁は、これ以上の拘置は耐え難いほど正義に反するとし、衣類が後日、捏造された疑いがあるとまで、踏み込んだのだった。
当日、ひで子さんと支援者は東京に出発した。午後、東京拘置所から釈放され、車に乗り込む巌さんの姿が、ニュース映像として全国に流れた。「巌さんをふるさとに、一刻も早い再審開始を!」の願いがかなった瞬間だった。釈放はじつに48年ぶりだった。しかし、地検は即時抗告した。
巌さんは東京の病院で2か月ほど療養した。5月19日にはWBCの名誉チャンピオンベルトを授与された。そこで巌さんはしっかりとファイティングポーズをとった。この負けないという思いが、死刑の恐怖をはねのけてきたことを示していた。本当に打たれ強かったのだ。
5月27日、袴田巌さんは浜松に帰ってきた。浜松の救う会は新幹線の駅の出口で、「おかえりなさい、巌さん」のメッセージを掲げ、出迎えた。巌さんは右手にピースマークを掲げて応じた。すぐに、集会がもたれて、そこで無罪判決と即時抗告の棄却を訴えた。その後の記者会見で巌さんは発言したが、拘禁による意味不明の発言がめだった。巌さんの自らを全能の神に見立てて、生き抜き、その仮想を現実のものを幻視したままの状態になっていた。浜松への帰郷は病院の転院の形であったが、6月29日には清水の集会に参加した。その後は、ひで子さんの自宅での共同生活がはじまった。
巌さんは、自宅のなかを拘置所の部屋を歩くように、背中をまるめ、足を引くように歩き続けた。映画「袴田巌」の撮影も始まった。TV局の取材も入った。少し経つと、巌さんは外出し、散歩するようなった。拘禁されて50年が経ち、1960年代初めの風景から21世紀へと、風景は一変している。全能の神・袴田巌を自称して、神のポーズなのか手に〇を描くようなしぐさをときにした。けれども、周囲の再審実現への思いと人間愛が、巌さんの表情を次第にほぐしていった。
自宅を自らの拠点と定めるようになると、集会などには参加しなくなった。釈放されて1年後、2015年3月1日に開催された浜松集会には顔を出さなかった。けれどもその日、自宅で誕生会を持つと、歌に合わせて手拍子もした。「ハレルヤ」といえば、「晴れていない」と言い返すような感性もみられた。
その頃「好きな言葉は」と聞くと、「真理」とも答えた。それが印象に残った。まさに再審・無罪は「真理」の実現である。3月末には、東京に行き、袴田シートでボクシングの観戦もした。5月2日、自宅で、拘置所から束になって送られてきた巌さんあての手紙・葉書の整理をした。世界各地から手紙や葉書が送られていたが、それらは巌さんには渡されていなかったのである。スペインのアムネスティの葉書がたくさんあったが、その絵は、男が闇夜を星空に向かって梯子を登っていくというものだった。
巌さんは自宅から散歩には出るから、時に集会にも出て、挨拶することもある。9月27日にもたれた浜松集会には、途中に登場し、無罪がある、頑張る、まあよろしく、などと発言した。自宅には、赤堀政夫さん、石川一雄さんなど冤罪体験者が訪問し、対話した。加藤登紀子さんとの出会いもあった。12月には映画「袴田巌 夢の間の世の中」(金聖雄監督)が完成した。2016年2月には浜松でその試写会がもたれ、3月、浜松のシネマイーラで公開された。3月には救う会で巌さんの誕生会をもった。
2017年1月8日はそれから約1年後のことである。昨年12月の忘年会に続いて、新年会を持つことになった。対話をすすめ、人間関係を深め、回復をねがっての企画である。救う会では将棋の友、歌の友などを募っている。1月9日の新年会での巌さんの言葉はときに外れるが、しっかりしていた。言葉に含まれている独自の思いをふまえて聞けば、十分に理解できるものだった。その言葉を組み合わせると以下のようになる。

勝たなきゃいけない 甘く考えていない
歩くと若くなる 足腰がつよくなる
勝つということ 勝負師であるから
世の中が清潔になればいい 自由が大切
やってないやつを 死刑にしちゃいけない
ほしいことは 世界が平和であること
事件はない やっていないのだから
清水の「太陽」で 七色の歌を歌う


巌さんは、50年ほどの拘禁と死刑の抑圧のなかで、全能の神として自己をとらえて自らを疎外し、狭い部屋を歩き続けることで、生を維持してきた。そのような人の心のくびきの根は深い。しかし、人間関係とそこからの人間愛の力は、そのくびきをぬくことができるだろう。検察の抗告により再審決定は止まってはいるが、「巌さんをふるさとに、一刻も早い再審開始を!」の思いは通じた。それは2013年末の時点では、実現できるかどうか、確信できなかったことだ。だから、「神を捨て、神になった男」が、人となり、仲間と生き、「真実の花を咲かせる」こともできる。それができると信じたい。(浜松 袴田巖さんを救う市民の会 芸能部員 竹内)*写真は新年会の開会前の対局と新年会での様子)


2017年1月4日水曜日

初将棋


1月3日(火) 今年初めての将棋。10時から街へ出かけ、3時半ころ帰宅。
お姉さんに汗を拭いてもらい、シャツも着替えて、「将棋をやらにゃー」と、一局開始。

対局前に、巖さんに新年の挨拶をしました。
「新しい年は如何ですか」
「だんだん楽になるんだね」
「今年の抱負は」
「正月ね。後から後からやることあるんでね」
「一番やりたいことは何ですか」
「まあ、お金がどれだけ儲かるかだ」(笑顔で)
「私は巖さんの再審無罪を勝ち取るため頑張りたいと思います」
「まあね、中々・・・(笑顔で)一人でこなしていってるんでね。代えが出来んでね」
「一緒に頑張りましょう」
「中々もうけるのが大変でね」
「どんなふうにしたらいいですか」
「出すほうが出さんという」


お姉さんに汗を拭いてもらう
今年初めての対戦