2013年12月21日土曜日

ひで子さんの想い

12月16日の法廷での陳述書

2013年12月16日

 

 静岡地方裁判所刑事第1

   裁判長  村山 浩昭 殿

 

陳 述 書

 

請求人の袴田ひで子です。

弟巌は無実の罪で47年間獄中におります。既に77歳となり、心身共に心配な状況にあります。ここ3年間誰とも面会を拒否しています。

私は巖の心がよく分かります。全く身に覚えのない罪で、死刑囚としてとらえられ、死刑執行の恐怖に耐え続けたことから、「裁判は終わった」、「ここは刑務所ではない」等々と、自分だけの世界に逃げ込み、心を閉ざしているものと思います。

 私は、巖がこの場に来て話してもらえることが一番だと思います。しかし今、巖は体調が悪くここには来られませんので、巖が逮捕されて、私が最初に受けとった手紙を読ませていただきたいと思います。

 「皆様と会わなくなって半年、お代りありませんか。

私も元気でおります。私のことで親類縁者にまで心配をかけてすみません。

 こがね味噌の事件には真実関係ありません。

 私は白です。私は今落ち着いて裁判を待っております。

私は暖かい部屋に入っていますので、現在なんの不満もありません。弁護人から聞いたと思いますが、面会が出来るようになったので、会いたいと思います。

お袋も姉も大変だと思うが○○(注:長男の名前)のことお願いします。

体に気をつけて。さよなら」

以上が巖からの47年前の手紙です。

私たちは6人兄弟で男3人女3人です。巖は一番末っ子です。女で一番下が私です。巖には子供が一人おりまして、男の子です。その子供に会うために巖は毎週土曜日には清水から浜北の実家まで帰っておりました。日曜の夜か、月曜の朝清水へ帰る生活が続いておりました。

事件のあった日は、同室の方が社長さんの家に泊まりに行っていて、巖はその日に限って一人だったものですから、アリバイがないということで、警察は目をつけ、しかも浜北の実家に帰ったということで、あとをつけられたりしておりました。浜北の実家に帰りますと刑事が「中瀬神社は何処ですか」とわざわざ尋ねる振りをして、 巖がいるかどうか確認しているようでした。

それから、警察に調べられているとき、便器を取調室の中に置いて、トイレにも行かせないと言うこともありました。木の丸い椅子の真ん中に尖ったものが出ていて、その上に座らされていたということです。これは拘置所に面会に行った時「どんな調べ方なの」と聞いたら、そう話してくれました。

当時私たちは民事訴訟も刑事訴訟も区別がつかないくらいほとんど何も知りませんでしたので、知り合いの人に頼んで、弁護士さんを紹介していただきました。

自供したと言うので、弁護士さんに面会していただくようお願いしました。その時私たちは面会できませんでした。それで兄2人と私に弁護士さんの4人で清水の警察署に行きました。弁護士さんが面会して帰ってくるといきなり「こんなに(顔が)腫れている」というのが第一声でした。それをそばの刑事が聞いていて「ああ、医者に診せたから」と慌てて言いました。そうとうひどい目に遇わされと思っております。

警察で調べられている間、私たちはテレビの二ュースでしか様子がわかりません。ニュースの時間は首引きで見ておりました。「ボクサー崩れ」とか、「女性問題が多い」とか、あたかも極悪人であるような報道でございました。私たちはただ家の中に閉じこもり、外にも出られませんでした。周りの人たちは、みんな 犯人だと思っていたと思います。「今日も犯行を否認した」というニュースが流れるたびに、辛い毎日でございました。

一審の裁判にはほとんど母親が出ております。その後母親は体調を崩し、半病人のようになり、ついに寝たきりの生活になってしまいました。巖が自供したというときは、早めの夕飯を済ませた後、「巖が自供した」とニュースを知らせると、母は「世間を狭く生きてゆくしかないね」とつぶやいておりました。その母もその後胃癌をわずらい、体調を崩し、1968年11月に68歳で亡くなくなりました。続いて父も1969年4月に亡くなりました。

母がなくなったことは、巖にはしばらく伏せておりました。半年ぐらいでの間、兄弟で相談して知らせないようにしてあったのです。そうしたらある日、巖からの手紙に「今朝方 母さんの夢を見ました。夢のように元気でいてくれるといいのですが」とあったのです。それで私たちは「ああ、これはもう黙っているわけにはいかない。巖に知らせよう」と相談し、一番上の兄が手紙で知らせました。

その当時、母は月に何度か巖と手紙のやり取りをしていました。その手紙が途絶えたので、巌は変だなあ と思っていたのでしょう。

母が亡くなった後は、「何か用事があったら、私のほうに言ってよこすように」と私が母の後を引き継いでいます。一日に便せん7枚、それを2組 ほとんど毎日、日記のように書いて送ってよこしておりました。

1991年11月までは、来ておりましたが、以後途絶えました。「なぜ、手紙を書かないの」と面会の時に聞いたら、拘置所の人が言ったのか分かりませんが、「書かないほうがいいと言った」と言うんです。そろそろ心の病が出始めていたのでしょうか、訳のわからないことを書き始めていました。

拘置所の人も世話が焼けるので大変だと思います。それで「手紙は書かないほうがいい」と言ったのだと思います。私は「へへののもへじでも何でもいいから、書いてよこしな」と言ってやりましたが、それ以来、手紙はプッツリ来なくなりました。手紙をこちらから出しても返事は途絶えています。

静岡の拘置所の最初の面会は、巖が会いたいということで出かけました。私は「伊達に兄弟がいる訳ではないから、頑張っていこう」と励ましました。

東京に移ってからは兄二人と私が面会しておりました。巖は面会室に入って来るなり、私たちが口を挟む余地もないほど、事件のことを話し始めました。私たち3人はただ「うんうん」と相づちを打つばかりで、30分はわけなく過ぎます。外に出て「巖が元気でよかったね。」と、私たちの方が励まされておりました。

やがて死刑が確定し、死刑囚の舎房に移ってからは、大変おとなしくなりまして、「ひどいところにいるよ。部屋の中から鍵も開けられん」と言って初めて弱音を吐きました。「そこにどのぐらいいるんだ?」と兄が聞くと、「ひと月くらい居ねばならんと思うよと」と言っておりました。

それから半年ぐらいして面会に行った時のことです。その時は私一人でした。アタフタと巖が面会室にはいって来まして、「きのう 処刑があった。隣の部屋の人だった。お元気でと言ってた。みんながっかりしている」と一気に言いました。私はあっけにとられながら、何がなんだかわからず、誰がとも聞けず、「ふーん」と言うばかりでした。相当のショックだったと思います。

それからしばらくして、「電気を出すやつがいる」と言い出しました。「かゆみの電波を出す」とか 「痛みの電波を出すやつがいる」とか言いだしました。それで私は「電気風呂があるぐらいだから体にいいよ」と返事しました。また「食べ物に毒が入っている」「毒殺される」とも言っておりました。 

「どうして毒が入っていると思う」と尋ねると、「体中がカーと熱くなる」と言っておりました。その他天狗だの 猿だのと意味の判らぬことを言い始めました。以来、処刑の話は致しません。拘置所で止められているのだろうと思います。

平成に入り10年あまり面会拒否がありました。「姉はいない」とか「兄はいない」とか言っております。でも、私は毎月面会に行っております。ひょっとして、会う気持ちになるかもしれない と思うからです。3年半くらい前までは、まあまあ面会出来ていました。3年半前の8月24日以後、また面会拒否が始まりました。以前には「もう再審に勝った」と言うし、「刑務所も無くなった」とも言っておりました。最後の面会では「御殿を建てている」と言っていました。こんなとんちんかんな話ばかりなので、「馬鹿言うんじゃない」とは言えないので「あ、そうなの」と相槌を打つしかありませんでした。

兄たちは、上の兄が20014月に亡くなり、下の兄も20093月に亡くなりました。

 

元裁判官の熊本さんの発言があって、テレビ放映の機会が増えるのにしたがって、みなさんにいろいろ声をかけられます。「頑張って下さい」とか「応援しています」とかおっしゃっていただいております。

私は保佐人になっておりますので、拘置所に巖の健康状態を訪ねましたら、糖尿病と認知症ということでした。21年の11月に聞いたところでは、認知症とは言いませんでしたが、22年8月24日にその頃国会議員だった牧野さんと面会に行ったとき、「認知症が進んでいる」と言われました。

超党派の国会議員の先生方による「袴田巖死刑囚救援議員連盟」というものが発足しております。有難いことだと思っております。

この47年間、盆も正月も祭りも無く、ただひたすら巖の無実を晴らすために一生懸命頑張って参りました。DNAの鑑定結果、弟は犯人でないことがはっきりしました。何か肩の荷が降りたような気がします。弟巖を生きて私の手元に迎えることだけを考え、ただただひたすらに生きて来た 私のこれまでです。

巖にとっても私にとっても取り戻すことのできない47年です。

巖は固く心を閉ざしながらも、必死で生きるための闘いをしていると思います。その反対側では、張り裂けんばかりの無実の叫びであふれかえっていることと思います。

どうぞ、1日も早く再審が開始出来ますようにお願い申し上げます。

ありがとうございました。

 

               請求人 袴田ひで子

2013年12月17日火曜日

巌さんの叫び

 12.16 ひで子さんと弁護団の意見陳述が行われました。
 陳述後、裁判官から、巌さんの意見聴取に東京拘置所に出かけた様子が報告されました。
 裁判官は巌さんとの面会のため別室で待機し、意を受けた拘置所職員が「裁判官が面会に来た」むねを繰り返し巌さんに伝えたようです。
 巌さんは「嘘なんかついてない」「真意を聞いてくれればそれに従ってくれればいい」「嘘言ったってそれが終われば儀式は終わり」「嘘言ったってしょうがない。面会なんか、どうしたって死刑になるから」と、拒絶の仕草が会ったようで、裁判官との面会は不調に終わりました。
 裁判所から弁護団にこのときの状況が正確に伝えられた段階で、改めて報告したいと思います。
 このやり取りはこれまで巌さんが繰り返し裏切られ続けている裁判への不信、死刑執行への恐怖を表現しているように感じます。
 東京拘置所は、裁判所だからこのような対応をしたのでしょうが、最も切実なお姉さんのひで子さんに対して巌さんの状況を知らせてほしいものです。写真は当日の記者会見。

2013年12月15日日曜日

北海道からの支援横断幕

 12.14 定例の浜松駅前での街頭署名で、北海道道民の会から送られた横断幕を張り出し、市民の方々にアピールを行いました。
 この日は、来年1月13日に静岡で行われる全国集会のチラシを併せて巻きました。
 ご協力いただいた署名数は、129人分でした。
 1月の全国集会の翌日地裁と地検に提出するための署名は、地元浜松をはじめ北海道や福島、仙台の方々からの応援をいただき、今日現在1326筆になっています。全国各地の皆さんありがとうございます。

引き続き
のご協力をお願いします。

2013年12月4日水曜日

袴田巌さんは無実だ! 12.8 浜松集会開催

 12月2日に袴田弁護団は、第2次再審請求審の最終意見書を静岡地裁に提出しました。
 来春には裁判所の判断が示されるものと思います。
 今回の最終意見書の報告を中心に、12月8日の日曜日に浜松で集会を計画しました。
 今回の最終意見書の報告が市民集会では初めてになります。「巌さんの無実を示す 最終意見書」と題しての報告を弁護団の村松奈緒美弁護士にしていただきます。
 また、先日WBC(世界ボクシング評議会)が正式に袴田巌さんの支援を決定しました。その会場に出かけた会員から、その場の様子を含め、この間姉のひで子さんに同行した歳の様子などを交え、「姉ひで子さんの想いによせて」と題した報告を予定しています。 
 袴田巌さんの無実を信じる一人でも多くの皆さんのご参加をお待ちしています。

 

2013年10月31日木曜日

10.28 福岡事件秋のキャンペーン 静岡集会

10月28日 福岡事件キャンペーン静岡集会開催

 1947年 占領下で福岡で起きた殺人事件の犯人として無実の死刑囚の再審を求めるキャンペーン「シンポジュウム「イノセンス・プロジェクトからのメッセージ」~袴田事件と福岡事件のために~」と題して開催されました。
 ゲストはアメリカからの3人。フェルナンデスさんは殺人事件の無実の犯人として懲役23年の刑を受けるも、目撃証言が覆り、逮捕から18年後無罪獲得。カーティスさんは、無実の死刑囚として21年間獄中にあったが、DNA鑑定の結果えん罪が晴れたもの。
 ケインさんは、大学の助教授で、警察官管理委員会の委員をしながら、死刑廃止を訴えている。
 さらに、福岡事件弁護団であり、ハンセン氏病裁判や九州での冤罪事件弁護団のネットワークの設立の中心的メンバーの八尋弁護士と、袴田事件弁護団の小川弁護士から報告とアピールがあり、袴田ひで子さんの挨拶を受け、関東学院大学の宮本先生のまとめで終了した。
 参加者は約50人。


2013年10月22日火曜日

奥西勝さんを殺すな

最高裁は、何が何でも奥西さんの再審開始決定はしないという態度ではないでしょうか。
江川紹子さんのレポート掲載します。

書いてみました 名張毒ぶどう酒事件・最高裁の棄却決定に思う(江川 紹子) - Y!ニュース bylines.news.yahoo.co.jp/egawashoko/201…

2013年10月6日日曜日

12.8浜松集会開催決定

 袴田巌さんの第2次再審請求審の最終意見書提出が12月2日。全国集会との関連を検討していましたが、全国集会は来年1月13日開催となりましたので、浜松集会を12月8日に行うこととしました。
 12月8日(日) 午後1時30分から 浜松市市民協働センターにて。弁護団報告を村松奈緒美弁護士にお願いし、「最終意見書」の内容の報告を予定しています。ゲストは浜松の救う会のメンバー作成の映像を見ながら、「ひで子さんの傍らで(仮称)」で題して講演を予定しています。
会場は以下を参照してください。http://www.machien-hamamatsu.jp/info/

2013年9月14日土曜日

最終意見書提出期限決定

 9月13日に開催された、三者協議で第2次再審請求における最終意見書の提出期日が、12月2日と決まりました。
 弁護団総力を挙げての意見書作成で、再審開始の厚い壁を打ち破ってほしいと切に思います。
 なお、この日の三者協議で、弁護団から3点の証拠開示請求について、「中心的な争点となっている5点の衣類について、みそタンクの状況、5点の衣類が隠されたかどうか、弁護団が取り上げている大きな課題であるとして、裁判所の勧告が行われました。
 
 最終場面に来て、裁判官の関心が5点の衣類がはたして、本当にみそタンクに隠すことができたのか見極めようとする姿勢の表れではないかと思います。
 獄中47年の巌さんを今度こそ救い出すため、何としても再審開始を勝ち取りたいと思います。
* 写真は、三者協議後の記者会見の様子。左がひで子さん
      
 

2013年8月26日月曜日

袴田弁護団夏季合宿

25,26と二日間の合宿終了。11月末を予定している弁護団の最終意見書作成のための合宿でした。しかし、今回でバシッと決まらず、次回三者協議までに最終意見書の構成を決めようということになりました。やはりDNA鑑定が強力な証拠になりきれないことから、開示証拠を十分生かした「5点の衣類」がどこにも介在出来ないようなものにしてほしいものです。

2013年8月14日水曜日

8.18

 47年前の8月18日袴田巌さんは逮捕されました。身に覚えのない罪を着せられ、以降獄中47年。時間の猶予はありません。直ちに再審開始を勝ち取り、無罪判決獲得を果たさなければなりません。逮捕から47年目の日に巌さんの無念の思いを胸にさらなる闘いに向けた連帯を。
 

2013年8月10日土曜日

面会拒否3年

 袴田巌さんの一刻も早い再審開始を求める静岡地裁への要請署名を集めるための、今日は浜松駅前での定例の街頭署名の日。総勢8人で1時間で88人の方から署名をいただきました。この8月で袴田巌さんの面会拒否は3年になります。毎月のように面会に出かけるひで子さんの心中はいかばかりか。
 先日の週刊新潮に掲載された、元衛生夫の方の記事では精神的不安定さが如実です。巌さんは面会の知らせを受けると「会わない」とか「関係ない」と声を荒げる様子が書かれていました。この点はひで子さんが面会を申し込むと、拘置所側が面会拒否の説明と重なります。しかし、声を荒げるという態度は、「裁判は終わった」「ここは刑務所ではない」という巌さんの世界と同様な、現実の問題と向きあいたくないという心の問題が見えてきます。
 なんとしても、ひで子さんとの面会が実現するよう祈るばかりです。

2013年7月27日土曜日

検察 証拠開示

7月5日の静岡地裁裁判官から、弁護団が開示請求をしていた証拠が26日開催の三者協議の場で開示されました。検察官は今回の証拠開示に際して、「条件付きの開示」を意見書として裁判所に提出しました。

2013年7月13日土曜日

選挙サンデー

 選挙サンデーの浜松駅前ではすでに2党が演説中と待機中。演説の背後を通行中のみなさんに袴田さん救援の署名を呼び掛け。維新の会は自分たちの演説が始まるやすぐにこちらのマイク使用制限を要求。「許可を取っているから」と中止要求。「毎月この場所で署名活動中である」と表明し、時間的経過もあり我が方は署名終了としました。
  今回は署名活動初参加の方が3名おいでいただき、演説を聞く聴衆の雑踏の中で、大いに頑張っていただきました。

2013年7月5日金曜日

事件を作り上げる検察


6.28 巌さんの実家から押収したベルトが巌さんの物であると検証。事件を作り上げる検察の常とう手段。巌さんが使ったという証明はできるのか。仮に使ったとして、いつ頃、ベルトのどの穴を使っていたのかどうのように証明できるのか。5点の衣類のズボンに使われたベルトにして、巌さんの有罪を維持しようというもの。
いつまでたっても、事件を作り上げる検察の姿勢は変わりません。

僕のこと覚えていて

 1957年(昭和32年)Yさんが小学校5年生の時の出来事。浜松駅から昼間の時間で乗客がほとんどいない列車に一人で乗っていた時、通りかかった人が振り向き「僕のこと知ってる」と話しかけられたようです。「僕の名前は○○イワオと言うんだ。ボクシングをしているんだよ。頑張って今にもっと有名になるから、僕のこと覚えていて。今から清水に用事があって行くんだ」。と言って次の車両に進んでいったそうです。
 その時の様子は、20歳くらいで、嬉しくて仕方ない風な笑顔で、将来に希望があふれている様子だったようです。Yさんはその時のたった2~3分のことを記憶していることが不思議でならないと話しています。
 2~3年前、夕食時のテレビ番組で「袴田巌元ボクサー無実の死刑囚が・・・」と流れているのを見て、「もしかしてあの時の青年が?・・・」と驚いたようです。それまで事件のことはあまり知らず、友人にその話をしたところ、友人の友人がひで子さんのお姉さんと一緒に働いたことがあったことから、巌さんの手紙が掲載されている本を読み、めぐりめぐって最近ひで子さんに手紙が届き、6月18日にYさんとひで子さんの面会が実現しました。
 
 
 

2013年6月12日水曜日

巌さんとの不思議な出会い

小学校5年生の女の子に巌さんに声をかけられた一瞬の出来事を覚えていて、数年前のテレビ番組で、袴田巌さんであることが分かった浜松在住の女性からひで子さんに手紙が届きました。
近いうちにお会いできることを期待しています。

2013年6月9日日曜日

街頭署名

 毎月定例の袴田巌さんの一刻も早い再審開始を求める静岡地裁への要請署名の協力を浜松駅前で行いました。メンバー5人で、約1時間50人余の方々から署名をいただきました。署名をしていただきた方の中に、ひで子さんと小学校が同級生という方がおりました。ひで子さんと時間を見て会いに行こうということになりました。

2013年6月8日土曜日

袴田巌さんを故郷に迎えようとブログを開設しようと目論みました。
なかなか立ち上がりませんが、そのうちにと。
巌さんお写真や状況報告を早く載せたいとは思いますが・・・
6月1日 東京での福岡事件の春のキャンペー会場にて 袴田ひで子さんと