8月18日は袴田さん不当逮捕の日です。
52年前の夏は、今年ほどの暑さではなかったと思いますが、連日深夜まで過酷な取調べが行われました。
「無法者静岡県警」の餌食となり、「冤罪ながら死刑囚」にさせられてしました。6・11高裁不当決定の大島裁判長は「殺屋」です。断固糾弾。
最高裁は高裁決定を厳正且つ早急に検証し、改めて再審開始決定を行うべきです。
以下は、1973(昭和48)年11月26日の巖さんから兄茂治さんへの手紙の一部です
さて、私も、冤罪ながら死刑囚、全身にしみわたつて来る悲しみにたえつつ生きなければならない。そして死刑執行という未知のものに対するはてしない恐怖が私の心をたとえようもなく冷たくする時がある。そして全身が冬の木枯らしにおそわれたように、身をふるわせるのである。自分の五宮さえ信じられないほどの恐ろしい瞬間があるのだ。然し、私は勝つのだ。
私は、今日の自分の生活に対する決意と行為が、一つなりとも卵を持って石に投げつけるに等しい無謀なものだとは思わない。こうして真実に反した、私の拘留も、そのいらだちも、怒りも、悲しみも、前述と矛盾するが、今の無実のこの私には起こらない。それは運命にしたがう従順さ、というものはない。ふしぎな自信が、いつの間にか、この私には、この胸中には、つちかわれているのである。
仮に、どんないじわるな方法で、どんな冷酷なとじこめられかたをしても、決して負けない。又、運命は、開らけると信じている。私の現在悲しみ多い立場を誰に分かってもらえるだろうか。私に、無実の悲しみを強いたのは、原審の違憲と、警察の偽証だ。この因で、身にふりかかった、数々の危難が、今は逆に、この決して負けない、運命は開かれるという自信を私に抱かせるのである。然し、しずまりかえった独房で独り寝る夜、時として、神を恨まずには居られないのである。私が、何の罪を犯したというのだ。何の為に、いつまでも拘留され、或いは、この世を去らねばならないのか。このような残酷な宿命を与えるとは、何という冷たいしわざか。こんな神様なら、世の中に、いらないのだ。私は、神にむかって叫びたい衝動にかられるのである。
私の、犯人たり得ないことは、既に、法廷で明かにされているのだ。本件における、今日の私の存在は明かに白だ。本件の真犯人としての、当然、当てはまらなければならない所の、数点の血染の物証、この全てが、私には、当てはまらないのだ。ばかりか、本件真犯人としての第一条件おも満していないのだ。この私を、長々と拘留すること事態、大きな罪であり、今こそ当局は正義に目を開らいて頂きたい。当審で審議済みの証拠に付いても、今さら当局が疑う余地がないのである。更に言えば、物証は嘘を言わないものである。
神は、私の本件における主張のその潔白と、真実私が犯人でないことも百も御承知ではないか。私がこのように思う夜の次の行為は、きまって一つ、それは頭から布団をかぶるのである。もうそこは悲しみの涙を忍ぶ必要はない。
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