事件当時風呂場の洗濯機は故障していた
1982年6月19日付けの袴田巖さんから斎藤準之助弁護士宛てて書かれたはがきに、こがね味噌工場風呂場の洗濯機が故障していたことが書かれています。
「本件当時故障があり使用不能であったこと。(中略)右洗濯機を使うことはできない状態でした。この事実を裏付けるためには、右工場に入っていた電気屋さんに御調査下さればわかるのではないでしょうか。」という内容でした。
2月6日の夕方、街歩きから戻ったばかりの袴田さんからそのことを聞いてみました。
帰宅した巖さんの衣類をひで子さんが洗濯するということで、靴下を脱いだところでの会話です。
・巖さんは洗濯をしないのですか。
|
・斎藤弁護士のはがきの中に巖さんが住み込んでいたところの洗濯機のことが書いてありましたが。
〇 洗濯。洗濯という問題というと、監獄制度の問題だろうね。監獄じゃやらにゃしょうがないんだでね。
・清水にいたころです
〇 清水にいたころ。こがね味噌じゃやってたね。こがね味噌で洗濯機ガラガラ廻してたね。そういうことはありますね。
・洗濯機が故障していたとか。
〇 洗濯機がやりやすいようになっていたんだね。洗濯をね。
・一人で洗濯していたのですか。
〇 やってたんだね。
・若かったですね。
〇 それくらい頑張らにゃしょうがなかったんだね。洗濯はね。着るものの後ないでね。
・毎日してたんですか。
〇 そんなことはないがね。
・結構汚れたんですか。
〇 夏と冬は違はね。3日に一遍やったかな。
・えらいですね。今は考えられない。
〇 今は、まあこがね味噌行きゃあやるんだろうね。こがね味噌行きゃあみんなやってるんだからね。
・その頃の事思い出すことありますか。
〇 こがね味噌ねー。忘れちゃったね大概。監獄が長いということになってね。
・ひどい目にあいましたね。
〇 まあありゃ修行だからね。神になるための修行だね、あれは。こがね味噌から監獄へ行ったということはね、行くしかなかったということだ。修行なんだね。自分に対する修行があった。耐えれるか、耐えられねぇかということだね。問題はそういう修行にね、警察を相手に闘うしかないという、監獄制度じゃあね、拷問の取り調べをね、それに勝つということだ。どういう方法があるかと、まあいろいろあるんでね。
・負けなかったですね。
〇 本当に最後まで負けちゃうかどうかということだね。自白っていうね。負けちゃうことになっていう。逃げちゃうかっていう、逃げるしかない。拷問じゃ逃げるしかないんだね。警察の拷問にゃね。
・ひどかったんですね。
〇 そんなものあったんだね。向こうも書いてるようにね。事件がないんだから、実際はね。実際何んだからね。書いただけっていうが、それも書けないんだね。実際書けてやしないんだね。書けてやしないから、何とか否認しようっていうことだね、否認して自白調書なんてものは拷問だと。自白してでっち上げだ。裁判所に闘いだね。そんなこと考えていたんだね。
・斎藤弁護士へのはがき読ませてもらって闘っていると思いました。
〇 闘うしかないんでね。事件がない、無罪というそういう根本的なものすごい証拠があったんだね。それを裁判所が隠してきたっていうんだ。長い事ね。
・どうやって苦しい時を乗り越えたんですか。
〇 まあ人間だからね、人間だから、のらくらだよね。のらくら。うそ言っているんだからね、あらゆるうそを言っているんだね。拷問に対してね、あらゆるうそを言っている。何かやれねぇんだね。国家権力相手だからね。国家権力相手だから。拷問の問題があって、のらくら、のらくらうそを言っているんだね。
・拷問は痛い目にあわされたんですね。
〇 拷問っていまさら言ってもしょうがないんだね。さあ顔洗って、と立ち上がる。
この日は以上で終わりました。(文責:浜松 袴田巖さんを救う市民の会 寺澤)
0 件のコメント:
コメントを投稿