2018年9月18日火曜日

「再審請求の戦いを続ける死刑囚日本人ボクサー」


「再審請求の戦いを続ける死刑囚日本人ボクサー」 
                                                  (ズスキ ミワ AFP/時事) 
ジャパンタイムズ ニュース (2018/9/17)
(写真) 静岡県浜松市の町を歩く元プロボクサー袴田巌さん。1966年、一家4人の殺害の罪で死刑判決を受けた。(828日。APF/時事)

(静岡県浜松市)トレパン、上着、麦わら帽子姿で街を歩く82歳の袴田巌さんは日常生活をこなしに出かける80代の普通の日本人と間違われてもおかしくない。
しかしこの元ボクサーは普通の生活とはかけ離れた生活を送ってきた。半世紀の間、死刑判決の下に生きてきたのである。彼はおそらく最も長い期間、死刑判決の下にいる人だろうと思われる。
この殺人被告人は異常な死刑判決の下にありながら再審を待ち続けているのである。
支援者たちに依れば、50年近くに及ぶ拘留、しかも常に刑の執行の恐れがつきまとう独房での生活が、袴田さんの精神的な健康状態に大きな被害をもたらしてきたという。
彼は現在静岡県浜松市の街を何時間も歩いている、自分の世界に閉じこもって。
AFPの人間が蒸し暑い夏のある日に袴田さんに会った時、この元ボクサーは「毎日闘っているんだ」と言った。
「一旦勝てないと思ったら、勝利への道はない」と彼は言った。
ボクシングについて語りながら、死刑判決への正義の長い戦いについて語っているのだと思われた。
支援者の寺澤暢紘さんによれば、「空想の世界を創ること」は、何十年にもわたる拘留と、いつ死刑執行されるかもしれないという恐怖から生き残るための袴田さんのやり方なのだ。
「以前と違い、自由に歩くことができる。でも、心の中ではいつ死刑を執行されるか分からないという苦悩にさいなまれて独房に閉じ込められている。何十年もの間、死刑と冤罪の恐怖から逃れることができないでいる」と寺澤さんは言う。
袴田さんの話は1966年に始まる。この年、勤めていた会社社長、その妻、二人の10代の子供の強盗殺人と放火の疑いで逮捕される。
最初は起訴内容を否認していたが、後に彼が主張するところの、殴るなどのひどい警察での取り調べ結果、自白することになる。
彼は自白を撤回しようとするが、1988年死刑判決を受け、1980年最高裁で刑が確定する。
袴田さんは再審を請求し、堅固な日本の裁判制度の中で稀な例として、静岡地裁が2014年、再審を認める決定をする。
決定では、捜査には証拠ねつ造の可能性があるとし、袴田さんを釈放した。さらに、これ以上拘留することは「耐え難く正義に反する」と述べている。
しかし法律上の行きつ戻りつは続き、東京高裁は6月、地裁の決定を覆し、最高裁に差し戻すことを決定する。
日本はアメリカ以外の先進主要工業国の中では唯一死刑執行をしている国である。これは広く大衆の支持があるためであり、この問題での議論は稀である。
日本政府は最近オウム真理教のメンバー13人を、1995年の東京地下鉄致死ガス攻撃事件を招いた罪で死刑に処した。
現在の所、裁判所は袴田さんが高齢であることを考慮し自由を認めているが、支援者たちは袴田さんが再び拘束され死刑にされる可能性があることを恐れている。
先月検察庁は、袴田さんの「不必要な判決中止の状態をやめる」ための訴えを退けるように最高裁に要請した。
しかし、袴田さんの姉の秀子さん(85歳)は、弟の無罪を訴えるために日本中に出かけていくと強く言っている。
袴田さんの有罪判決の決め手となったのは、事件が起きてから1年以上たってから現れた血痕の着いた衣類だった。
支援者たちによれば、その衣類(のサイズ)は袴田さんには合わず、血痕も経った時間を考慮すると新しすぎる。DNAテストでは袴田さんと衣類の血液の関連は見つからない、としている。しかし、高裁はその検査方法を却下した。
秀子さんはできるだけ弟を寛がせ、拘置所では食べられなかった新鮮な果物や野菜を食べさせている。
「自分のやりたいようにやらせるの。」と秀子さんは言う。
しかしながら、秀子さんは1980年に最高裁が弟の訴えを退けた時の怒りを忘れてはいない。
「みんなが敵に見えたの。そこにいるみんなが。弁護士も支援者たちも含めてみんな敵に見えたの。」と言う。
「でも、巌は地獄の門に立っていたのよ。私は前に進むしかなかったの。」

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